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​「小三郎伝」

​2020年9月収録

一八六七年(慶応三年)に京都で赤松小三郎は三十七歳で暗殺されている。黒幕の謎に迫る。

​(ページ下部には英語字幕ヴァージョンも掲載)

ストーリー

 二〇二〇年の春、私は新型コロナウイルスの影響による自粛期間中、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』を読み直しました。この本は一九六〇年に全文の翻訳が出されています。

以前は気が付かなかったのですが、翻訳者の坂田精一氏の前書きに「終戦前(筆者注一九四五年)は(二十五年もの長い間)わが国では禁書の扱いだった。」とありました。その理由が、かいつまんで言えば「外国人の自由な観察が国民の目に触れることで、明治維新の素晴らしさを強調し国民精神の基盤にしようとする為政者にとって邪魔だったから。」だそうです。そして「討幕の志士や反幕府的な大名などが、サトウの歓心を買うことにつとめたことは第二次大戦直後の日本の政情にも一脈通じている。」ということは現代の日本にも重なります。また、サトウの記述の中に同僚だったアプリン大尉に英語を習った赤松小三郎のことが一行も出て来ないことに疑問を持ちました。赤松はもっと業績が知られ、歴史の教科書に載せるべき人物だと考えますし、上田藩主にして老中だった松平忠固も同様でしょう。この二人は、合理性と情の人々として日本に、世界に広めたい人物だと思って書きました。

 

あらすじ

一八六七年(慶応三年)に赤松小三郎は京都で三十七歳で暗殺された。

その悲劇の起きる前、一八六四年(元治一年)赤松は横浜のイギリス公使館に勤務する騎兵士官アプリン大尉に英語を習う。

イギリス公使館には一八六二年(文久二年)にアーネスト・サトウが赴任して歴代の公使を支え、日本との条約を有利に結ぼうとしていた。

一八六五年(慶応一年)に赤松は英語の兵書「英国歩兵練法」をもう一人の侍と共同で翻訳を始めた。一八六六年(慶応二年)徳川政権や上田藩の主君に建白書を提出する。薩摩藩から声をかけられ、京都で英国式兵学の塾を開く。一八六七年(慶応三年)会津藩の山本覚馬の依頼で会津洋学校の顧問となる。公儀、越前の松平春嶽や薩摩の島津久光に議会政治を求める「御改正口上書」を提出した。

そのころ、アーネスト・サトウは友人のトーマス・グラバーが在庫として抱えた大量の兵器の販売先を探していた。サトウは公使のハリー・パークスにはフランスのロシュ公使への対抗心を煽り、日本の若い侍たち、伊藤博文、井上馨、大久保利通、桂小五郎たちには、武力による『革命』を促した。サトウは西郷隆盛や坂本竜馬にも接触し、若い長州の侍たちを利用し、日本を「自覚なき植民地」にすることに成功する。

赤松小三郎は上田藩の下級武士でありながら数学と英語の能力を活かし、日本を立憲主義に基づく「人民平等」の近代国家にしようとしていた。明治が来る前に暗殺された彼の先進的な思想は、兵学の弟子、東郷平八郎に受け継がれ、日露戦争に勝利した。

​声の出演

「小三郎伝」合情記
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