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​「忠優伝」

あちこちに刺激が落ちている

​2021年6月収録

上田藩主忠優は養蚕業を盛んにし、大阪城代の赴任時代に経済を向上させた。その経験から開国と交易で国を豊かにする政策を進める。尊王攘夷を主張する徳川斉昭と常日頃対立している忠優は、日本の防衛力を冷静に判断し「日米和親条約」と「下田三箇条」を結ぶ。

歴史考証:関良基  

ストーリー

 松平忠優は、上田藩の藩主として、大凶作、大地震、洪水などで藩財政がひっ迫する中、領民に一人の餓死者も出さないという方針で臨む「公助の殿さま」ともいうべき人物だった。

また、徳川政府の老中として日本を開国に導く重要な役割を果たしていた。文化九年から安政六年(一八一二年から一八五九年)は、次々と外国船が押し寄せる日本の激動期に当たる。ペリー提督が浦賀に来航し、再来航を告げて沖縄に去る。忠優は上田藩主として養蚕業を盛んにし、大坂城代であった時は上田産物会所を作り、御城代縞と呼ばれる特産品を販売させ、経済を向上させた。その時の経験から開国と交易で国を豊かにする政策を進める。徳川斉昭は、尊王攘夷を主張して、忠優の前に立ちふさがり、武断政治を行おうとする。それに対して忠優は、日本の防衛力を冷静に判断し「日米和親条約」と「下田三箇条」を結ぶ。

: 忠優は上田藩士の赤松小三郎と同様に歴史上、もっと知られてよい存在であり、最新の歴史的事実も交えて書きました。外国との条約をめぐる史実、新事実はあまりにも複雑なので、架空の藩士「吉田朱鷺蔵(よしだときくら)」を登場させ、創作しました。

*忠優は、忠固と自ら改名し、「日米修好通商条約」も結ぶ。

あらすじ

 嘉永七年(一八五四年)一月、アメリカのマシュー・カルブレイス・ペリー提督は日本と日米和親条約を結ぶために浦賀に二度目の来航をした。前年の嘉永六年(一八五三年)六月の一度目の来航で日本を去る時に予告した時期よりも半年も早い再来日であった。上田藩主で老中を務めていた松平忠優は強大な武力を見せつけるアメリカとの全面戦争を避けるために鎖国から、通商を含む開国という政策の大転換を決断する。尊王攘夷を主張し鎖国を続けようとする徳川斉昭と、「開国、交易」で日本を豊かにしようとする合理性を持った松平忠優の両極の議論に徳川政権は揺れる。日本にはロシアのプチャーチン提督も和親条約を結ぶために来航していたが、外国人を「神の国」日本を汚す存在と考える斉昭と忠優の考えは相反するものだった。また、ペリー提督は、「日本は東方の未開国だ」という先入観を持っていたが、予想に反して交渉術に長けた人材が揃う徳川政権との条約交渉に苦心していた。天皇の権威を徳川政権の上に置き、攘夷思想で武断政治を行おうとする斉昭とその賛同者に阻まれながら、忠優は大奥の女性たちの意向も考慮し、日米和親条約を結び、開国を断行する。

​声の出演

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​氏家信樹

​吉田朱鷺蔵・井戸覚弘

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​鈴木奈津子

​歌橋

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